沿革
明治28年 
6月18日 
 埼玉県北足立郡浦和町に開設、埼玉県第一尋常中学校と称す。
29年 
10月5日 
 開校式・第1回入学式(150名人学)挙行
32年 
4月1日 
 埼玉県第一中学校と改称
34年 
   埼玉県立浦和中学校と改称
39年 
   開校10周年祝賀式挙行、校旗ならびに校歌制定
昭和11年 
11月23日 
 第1回耐久競争
12年 
9月22日 
 浦和市領家に移転
23年 
4月1日 

 新学制により埼玉県立浦和高等学校と改称、

 生徒定員1,050名、週5日制実験学校に指定

     第1回浦高祭
26年 
5月4日 
 第1回新入生歓迎マラソン
32年 
10月19日 
 第1回湘南戦(於本校)
33年 
7月13日 
 第1回臨海学校(於千葉県勝山)
34年 
10月3日 
 耐久競争を強歩大会として復活
平成7年 
7月28日 
 百周年記念式典挙行、英国ウィットギフト校と姉妹校提携の協定を締結
8年 
7月9日 
 百年対決(対熊谷高)
平成11年 
   単位制導入
歴代校長

 

  1. 石川 一     明治29年 7月~ 明治 30年11月
  2. 藤井宣正       30年11月~     33年11月
  3. 高橋重蔵       33年11月~     41年 7月
  4. 平山 正        41年 9月~ 大正  2年 4月
  5. 渡部 鐍    大正 2年 4月~       6年 1月
  6. 岡野章太        6年 1月~      9年 7月
  7. 小林隆助        9年 7月~ 昭和  2年 8月
  8. 今井精一        昭和  2年 9月~    16年11月
  9. 五十里秋三      17年 3月~     27年 3月
  10. 下山 懋        27年 4月~     29年 4月
  11. 木村泰夫       29年 4月~     40年 3月
  12. 西川好明       40年 4月~     42年 3月
  13. 柳瀬 忠        42年 4月~     46年 3月
  14. 小関一郎       46年 4月~     48年 3月
  15. 矢代 登        48年 4月~     52年 3月
  16. 前田耕平       52年 4月~     55年 3月
  17. 村越五郎       55年 4月~     57年 3月
  18. 吉川正就       57年 4月~     59年 3月
  19. 小林泰雄       59年 4月~     61年 3月
  20. 長谷川肇志      61年 4月~ 平成   元年 3月
  21. 鈴木勲二       平成 元年 4月~       3年 3月
  22. 菅野達也        3年 4月~       7年 3月
  23. 渡邊修一郎       7年 4月~       9年 3月
  24. 細田信良        9年 4月~      12年 3月
  25. 倉橋政道       12年 4月~      15年 3月
  26. 桐生貞雄       15年 4月~      18年 3月
  27. 前島富雄       18年 4月~      21年 3月
  28. 関根郁夫       21年 4月~      25年 3月
  29. 杉山剛士       25年 4月~      30年 3月
  30. 小島克也       30年 4月~    令和 2年 3月
  31. 水石明彦     令和 2年 4月~       令和 4年 3月
  32. 日吉 亨                   令和 4年 4月〜 

  

浦和高校の歴史
※「浦和高校の歴史」は、2018年度2年次(72期生)アドバイザリー・グループに参加した生徒の協力により作成されています。
 

 浦和高校の始まり(1895~1908)

 

1895年  6月18日 県立尋常中学校2校を熊谷と浦和に設置することを告示される。
→浦和中学校設立の決定
1896年  6月 1日 石川一先生が本校の初代校長に任命され、準備に着手する。
   9月19日 鹿島台に校舎竣工
  10月 5日 開校式及び第1回入学式が挙行され、浦和に埼玉県第一尋常中学校が開校
→浦和中学・浦和高校の始まり
(この年に入学したのは1年生と2年生であった)
1897年 11月 2日 石川一校長が京都帝国大学(現在の京都大学)舎監として転任し、藤井宜正先生が
本校の2代目校長に任命される。浦和高校の目指す「尚文昌武」を掲げた人である。
1898年   この年から年度が4月から翌年3月に変更される。
1899年  4月 1日 埼玉県第一中学校と改称
   3月26日 第1回卒業証書授与式が挙行される。
1900年   寄宿舎、生徒控室を新築し、食堂を増築する。
1901年 5月1~3日 修学旅行が行われる。この年以降、修学旅行は毎年行われるようになる。
   8月13日 埼玉県立浦和中学と改称
1902年 11月 3日 秋期大運動会が行われる。
1903年  7月26日 麗和中学同窓会第1回総会が開かれる。
1904年  7月30日 麗和中学同窓会第2回会合が開かれる。会費50銭。
同窓会会員は当時年間20銭を麗和会に寄付していた。
1905年  7月30日 第三回麗和中学同窓会総会が行われる。
1906年 10月 5日 開校十周年記念式典があり、校歌制定、運動会も行われた。
1907年  8月1日~ 相模国三浦郡北下浦津久井にて麗和中学会臨時水泳練習が行われる。
生徒24名が2マイルの遠泳を行い、約1時間15分で泳ぎ切った。
臨海学校の原形である。
  10月20日 本校で埼玉学生親睦会が開催され、熊谷、川越、粕壁、不動岡の中学校応援団が
来校した。現在の「日輪の下に」の原形と言われている。
1908年  5月27日 講話大会があり、生徒11人が「歴史上における理想の人物」、
「物価の下落」など様々な講話を行った。

 

1900年頃の浦和の地図                    現代の浦和の地図

参照

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web

 埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室)

 

鹿島台から領家へ移転の様子

120年を超える歴史
明治28年、浦和町鹿島台(現在の知事公館、浦和警察署周辺)に旧制浦和中学校として本校は誕生した。「校舎の礎動きなき、わが武蔵野の鹿島台」と校歌にも歌われた当時の浦中の校庭は、桜の名所としても知られた。開校当時から美しい花々が散り乱れ、人々の目を楽しませたのだった。
 ――それ以来、すでに一世紀以上が経ち、卒業生は3万人を超えている。
 時間の重みは何ものにも代え難い。百十四年の時間をかけて、数え切れないほどの生徒、教師が浦高の伝統を築き上げて来た。その有形無形の財産に囲まれて、これからの浦高も更なる時代を切り開いていくのである。
 浦高の敷地内には同窓会館『麗和会館』がある。同窓の集い、卒業生の会合がしきりに行われるこの『麗和会館』には、浦中、浦高の歴史的資料を展示した資料室もあり、古い写真や歴史遺産に往時をしのぶ卒業生も多い。

<2015年10月3日 創立120周年記念式典>(肩書は当時のものです)
10月3日(土)にさいたま市文化センターにおいて、埼玉県立浦和高校創立百二十周年記念式典が盛大に挙行されました。
全校生徒に加え、150名以上の来賓の方々をお迎えし、式典とアトラクションが行われました。
また、百二十周年記念に合わせ記念誌「銀杏樹」も発行されました。
 
(左上)杉山校長式辞  (右上)埼玉県教育委員会副教育長 櫻井郁夫氏の言葉

 
(左上)第二十七代校長 前島富雄氏の言葉  (右上)同窓会会長 川野幸夫氏の言葉
 
(左上)生徒代表挨拶 設楽くん (右上)校歌斉唱

また、式典後には、卒業生であるオーボエ奏者の渡辺克也氏の演奏を皮切りに、グリークラブ、応援団、吹奏楽部、室内楽部による演奏が行われ、
会場は大いに盛り上がりました。
 
(左上)オーボエ奏者 渡辺克也氏(高37)の演奏  (右上)グリークラブ
 
(左上)応援団と吹奏楽部  (右上)吹奏楽部

吹奏楽部、応援団、グリークラブ、室内楽部による共演
浦和高校 行事の歴史(文化祭)
※浦和高校 行事の歴史については、2018年度2年次(72期生)のアドバイザリー・グループ「浦和高校の歴史を探る」の生徒による報告書のまとめとなります。

「浦高祭の意義は何か」


1.はじめに
 我々は総合学習の授業で浦和高校の歴史について、特に文化祭の歴史について学習した。さて、浦和高校の一大行事である浦高祭だが、我々は開催することが当たり前かのようにそれを企画、運営してきた。しかし、そもそも浦高祭を行う意義とは何なのであろうか。そこでここでは浦高祭の意義は何なのかを考察する。
最初に浦高祭の歴史について述べ、そこから浦高祭の意義を考察する(第2節)。そして過去の資料から読み取れる浦高祭の意義について考察する(第3節)。最後に結論として浦高祭を行う意義を述べる(第4節)。


2浦高祭の歴史
浦高祭の歴史上特に特徴的な出来事に関する記述から浦高祭の意義を考察する。

2.1 沿革
昭和22年   (第1回) 第1回目の浦高祭が開催される。
同23年   (第2回) 生徒会が企画・運営の中心となる。
同32年  (第10回) キャンパスファイヤーが始まる。
同37年  (第15回) 市中パレード実施。
同38年  (第16回) 文化祭実行委員会制が開始。
同40年  (第18回) パレードがこの年から行われなくなる。
同 44年  (第22回) 立て看板やデモなどが目立つ。
同46年 (第24回) 喫茶店、お化け屋敷、金魚すくいが出現しその後の流行のもと となる。
  平成 5年    (第46回) 下ネタ(したねた)がパンフレットにて開始

2.2.1浦高祭の誕生
『昭和10月15日(金)第一回浦高祭祝賀会式典が、本校グラウンドで行われた。その年、10月17日(日)には、旧制中学の頃から行われていた運動会が開催された。1,2年生のA~Dの4クラスから、それぞれ2名の委員が出ていたが、その間で文化祭を開こうというムードが漠然と盛り上がった。
(中略)
かくして、浦中50周年記念、新制浦校発足記念第一回浦高祭は、保護者の他に、近所の子どもたちや女子高生も多く集まり、盛況のうちに夜を迎え、ファイヤー・ストームの火を燃やす物がなくなるまで燃やし続け幕を閉じた。翌年には、その年設立された生徒会が企画、運営の中核となり、発展していくこととなる。』(引用:百年誌「銀杏樹」)
その後、第16回の文化祭において実行委員会制度が導入され、現在に続く形がスタートした。
 
<考察>
・    第一回が生徒たちの意見がきっかけとなって始まったことや、第二回の開催から主体となる団体が生徒会になっていることから、浦高祭は歴史的に生徒主体で成り立ってきたものであり、それを通して自立性を養うことが浦高祭の意義であると考察できる。

2.2.2キャンパスファイヤーの誕生
第10回(昭和32年)浦高祭においてキャンパスファイヤーが始まった。これまでのファイヤーストームがプラグラムの1つとして加わったもの。
当時の実施要綱には目的として『かがり火を囲み、浦高生相互の友愛の中に全体の意気を昂揚し、学校愛を高める』とある。
 内容は、営火・合唱・寸劇・ブラスバンド演奏であった。
 第15回までは前夜祭として行われていたが、第16回に後夜祭に移され、現在でも受け継がれている。

<考察>
・キャンパスファイヤーは文化祭中の行事であるからその目的である、学校愛を高めるということは文化祭の意義としても考えられる。

2.2.3浦高祭パレードの誕生

『第15回(昭和37年)の文化祭においてパレードが始まった。浦高祭の宣伝と、「何もすることのない浦高生」に参加する場を作り、浦高祭のムードを盛り上げるために実施。
実行委員の斎藤正彦氏(高18)は、県警に日参し、浦高と北浦和駅の往復を実現した。第16回では玉蔵院から浦和橋をわたり浦高までのパレードになった。』
(引用:百年誌「銀杏樹」)
 第18回(昭和40年)以降、パレードは行われておらず、現在に至る。

<考察>
・    パレードの目的で、「何もすることのない浦高生に参加する場を作り、浦高祭のムードを盛り上げるため」とあり、浦高生全員が参加する場を作ることが浦高祭の意義として考えられる。
 
2.2.4学園紛争時代の浦高祭
 『第22回(昭和44年)文化祭では立て看板が立てられ、ビラが配られ、ヘルメット姿の学生(浦高生及び他校生)が旗を揚げデモを行った。同じ会場では、当時はやりのフォーク集会、座って討論集会(と思われるもの)が行われていた。』
(引用:麗和会館内の展示)

<考察>
・    学園紛争時代の様子から、浦高祭は自らの意見を世間や教師に示す場であったことがうかがわれる。

3.資料から読み取る浦高祭の意義
 3.1資料ごとの考察


次に過去の浦高祭のパンフレット上に掲載された浦高祭宣言や実行委員長の言葉から浦高祭の意義を考察する。


第12回(昭和34年)
『われわれは、われわれ自身を高らかに示しえるこの機会に、生来厳正なる自然淘汰の下に選ばれたる勝者たることを深く自覚し、青春の意気と誇りを結集しよう。』

<意義の考察>
・自己主張の場を作り、自分の役割を自覚すること

第14回(昭和36年)「浦高祭宣言」
 『真理とは何か、人間の永遠の課題を求めて、我等一千有余の浦高生は、ここに「第14回浦高祭」を開催する。この暗澹たる現代社会は何らかの方法で我々を覆い、且つ蝕まんとしている。この時にあたって我々は、その騒がしさに巻込まれてはならないし、また可能な限りの力を以って、これに反抗し続けなければならない。』

<意義の考察>
・真理を追究し、社会に対しての向き合い方を模索すること

第16回(昭和38年)
『ここ数年、年毎に浦高生は皆同じ様な人間ばかりになり、特色ある人物が少なくなり非常に層が薄くなって来た。これは浦高だけの現象でなく社会的傾向だから当然であるとしてかたづけてしまう生徒が多いが、果してこの風潮は正しいのだろうか。浦高生は浦高生として自覚し、プライドを持つべきではないか。そして浦高生共通の精神を生み出して人間形成に役立てるようにし、その精神に共鳴した者のみが集う場に浦高をすべきではないか。そしてその精神を生み出すのが浦高祭なのである。
こんな現実の中で真理を見い出すのは容易なことではない。我々は可能な限りの力を以って、濁りのない純白の中の真理を見い出さねばならぬ。浦高祭は当日にではなく、むしろそれに至る過程に真の意義があることをここでもう一度確認しよう。』

<意義の考察>
・個性を形成すること
・浦高生としての自覚、プライドを得ること
・真理を追究すること
・「浦高祭は当日にではなく、むしろそれに至る過程に真の意義がある」

第22回(昭和44年)
『我々は、浦高祭の意義を考えて,それを認めたうえで浦高祭を開催したのだろうか。「我々にとって浦高祭とは何なのか。」という問題を考えもせずに、とにかくやってしまおうという態度で出発したのではなかったか。人生において最高の時期であるはずの高校生活-その青春を謳歌することを阻止するものに対して、我々はスクラムを組んでぶつからなくてはならない。矛盾多き高校生活を考えることを妨げているのは、浦高祭にも大きな原因がある。すなわち浦高祭は、高校生活における欲求不満を根本から追求しようとする姿勢を失なわせ、その不満のはけ口となってしまっているからである。我々は今こそ、 <とにかく>とか<どうでも>とかいう言葉におし流されることなく、真の浦高祭とは何か、高校生活とは何かを、初めにもどって考えなおしてみなくてはならないのです。』

<意義の考察>
・真の高校生活を追究する

第24回(昭和46年)
 『僕はこう考えます。浦高祭とは、浦高生全員が一人一人精一杯、この年に一度の大行事にぶつかることだと。これ以上のことは個人が自分の考えに従ってやることで誰も強制できるものでもありません。それではなにゆえに浦高生が浦高祭を造り出すのでしょうか? 僕はこう思います。今の高校生活は「受験」という大きな体制の圧力のために人間性を損なわれています。三無主義が言われるようになって長くなります。このような現実の中にあって浦高祭は僕達が主体的に参加する数少ない機会であります。浦高祭は僕達の高校生活のオアシスになっているからです。』

<意義の考察>
・本気を出す機会を得ること
・生徒が主体的に参加する場を作り出すため。

第28回(昭和50年)
 『浦高祭 それは毎年行なわれている学校行事の中でもっとも生徒に密着し、またその努力を外に示せる時です。たしかに私たちは大学受験その他にふりまわされ、物事に対して無気力になっています。しかし、一方では 浦高祭というものを青春の1ページとして思い出に残そうと努力している人も少なくありません。結局のところ、浦高祭とは浦高生みんなで創る「まつり」であり、その中に真の浦高生の姿があらわれ、その成果を判断するのも浦高生自身です。ですから、浦高生はいかにあるべきかを誰もが考えてほしいのです。』

<意義の考察>
・浦高生の努力を校外に示す事
・浦高生の在り方を考えること

第35回(昭和57年)
『私は学校祭は生徒のものであると思っています。自らの手で造り上げること--それは自らを高めることに繋がるのではないでしょうか?自分の手で何かを掴む、そうあるものではないかと・・・。学園祭とは創造の場であると考えるのは間違いなのですか?すべての人に、そして私自身強く訴えるところです。』

<意義の考察>
・生徒自身で作り出し、自らを高めること

第36回(昭和58年)
 『我々の浦高祭とは我々にとって浦高祭とは何か。浦高祭の本質的な意義とは一体何なのだろうか。時代が変化する以上、毎回この答えは変わらざるを得ない。浦高祭において、文化部も運動部もない。我々は単に、高校生として、青年として、この非日常的な、浦高祭という一つの手段を通じて、表現し、協力し、自己を顧みる。浦高生一人ひとりが、浦高祭に何らかの意義を見つけ出す必要がある。』

<意義の考察>
・意義は時代によって変化する。
・1人1人が見つけ出すもの

第40回(昭和62年)
『浦高祭には"テーマ" というものがない。”テーマ” を意識して作らないのである。というのは、「浦高の根底には"自由"がある」と浦高生自身が認識し、「”テーマ”を作って文化祭を方向づけたくない」と考えるからである。つまり我々は、文化祭という場でもって自由に自己表現をすればいいのである。そこで、彷っている文化祭を捉えられればそれでいいのである。そう、常識を超越し、自分の、表現すればいい。内に秘めたるものを、自由に、すると、そこには……』

<意義の考察>
・自己表現をすること

第43回(平成2年)
 『浦高祭というものを言葉で表現するならば、それは、 浦高生一人一人が本来内包する多種多様なエネルギーを、浦高という学舎で育まれた一種独特の思考と錬磨できわめた結果、外部に向かって、プリニー式噴火によって徹底的に煥発させる、青春の一コマである、と言えるだろう。』

<意義の考察>
浦高生のエネルギーを外部に示す事。

第47回(平成6年)
 『浦高祭への想いは人それぞれであって、決して同じ考えというのは存在しないようであるように思う。がしかし、浦高祭も時代を経て、いろんな変化が見られるようになったと思う。しかし、浦高生の根底にひそむ何か共通する想いというのは変わらず今も存在し、消えずに燃えていると思う。マニュアル化が進み、自分の考えをもたないという人たちが増える今、毎年何かが違う浦高祭をとくと見ていただきたい。』

<意義の考察>
・外部の方に浦高魂を示すこと
・自分の考えをもつこと

第61回(平成20年)
『突然ですが皆様は、「『本気で頑張った』と胸を張って言える何かがありますか?」と問われて、何を思い浮かべるでしょうか。自分は片時も迷わず、半年をかけて作り上げた「浦高祭」と答えます。「本気で頑張る」 一見簡単そうで、実は本当に難しいこと。頑張っているつもりでもどこか妥協していたり、頑張ろうとしても続けることができなかった。 浦高男児なら、浦高魂で表現すべし。皆様の目と心で我々の「魂」を感じ取って頂ければ、それ以上の喜びはありません。』

<意義の考察>
・本気で頑張ること
・外部の方に浦高魂を示すこと


第67回(平成26年)
『突然ですが、浦高祭とは何によって定義されるのでしょうか。生徒も、文実も教員も、学校全体が1つになって今日まで浦高祭の準備をしてきたわけです。ですがこれでは準備のままです。御来場いだいた皆さん、そして浦高祭に携わる全ての人間が楽しむ事こそが 浦高祭のあるべき姿だと思います。』

<意義の考察>
・楽しむこと


3.2年代による分類

これまでの考察を年代ごとに分類する。
3.2.1短い期間に言及された意義

<昭和30年代>
昭和30年代には以下の意義が挙げられていた
・真理の追究
・社会に対しての向き合い方の模索
・人間の生きる意味の模索
これらの意義は浦和高校に関することというよりも、哲学的な事柄を追究することであるといえる。昭和30年代の日本は戦後で過酷な暮らしを送っていたと思われる。そんな中、昭和34,35年の安保闘争など政治的に重要な出来事が発生したためそれに影響されていたのではないかと考察する。

<昭和40年代前半>
この年代には以下の意義が挙げられていた。
・浦高生としての自覚を得る
・浦高生の存在価値を考える
・浦高生のあり方を考える
・真の高校生活の追及
この年代は昭和30年代の浦高祭の意義と比較すると浦高生についての意義が目立った。
また、この年代には学生運動が盛んになり昭和44年には浦高祭でも抗議活動が盛んであった。そのような状況の中で浦高生が何をすべきなのかということに浦高生の関心が向いたのだと考察する。

<昭和40年代後半>
この年代には以下の意義が挙げられていた。
・本気を出す機会を得る事
・生徒が主体的に参加する機会を得る事
この年代の若者は俗にしらけ世代と呼ばれることがある。しらけ世代とは学生運動が沈静化した後の無気力な世代のことを指す。これは上記の意義にも表れていると考えられる。無気力で主体的に、本気を出して参加する場が少なかった年代であるからこそ、このような浦高祭の意義が挙げられたのだと考察する。

3.2.2 年代に関係なく言及された意義

・青春を謳歌すること
・友愛を高める事
・楽しむこと
これらの意義は年代に関係なく存在した。浦高祭を楽しみ友愛を高めることは浦高祭の大きな意義の一つといえる。

・文化部の活動報告
24回の文化祭にお化け屋敷などの出し物が生まれる以前は文化部の発表が中心であった。現在も文化祭は文化部にとって重要な発表の場となっている。よってこの意義が浦高祭の年代に関係ない意義であることは明らかだ。

・自らを高めること
・自己表現をすること
・個性の形成
 浦高祭は前述のように生徒主体で作り上げるため多くの生徒が普段の授業では学べないことを学ぶことができる場であると考えることができる。近頃、先生方がよく言われる「世界を支えるエリートになれ」という目標にも浦高祭はつながるのではないだろうか。

・努力、エネルギー、浦高魂を外部に示すこと
 浦高祭は第一回から現在まで一般公開を行っている。浦高生が地域の方々と交流をする機会は文化祭以外にあまりない。また、中学生が文化祭を高校選びの参考にする場合も多いため浦高祭による外部との交流は重要な意義の一つだと考えられる。


4.まとめ
4.1 結論 


浦高祭の歴史と過去の資料から浦高祭の意義を考察した。結論として浦高祭の意義は時代の影響を受けて変わっていくもので、その時代の浦高生に必要な事を身に着けることが浦高祭の意義であったと分かった。しかし時代に関係なく存在する意義もあり、個性を形成することや浦高魂を外部の方に示すことなどがあった。
また、最近の浦高祭では生徒間で意義が共有されていないように感じられる。生徒が意義をしっかりと理解したうえで参加することでより浦高祭を行う価値が高まるだろう。意義を生徒一人一人がよく考えることがこれからの課題である。 

文献
・百年誌「銀杏樹」
・麗和会館展示室内の展示
・第12回から71回までの浦高祭のパンフレット
浦和高校 行事の歴史(体育祭)
※浦和高校 行事の歴史については、2018年度2年次(72期生)のアドバイザリー・グループ「浦和高校の歴史を探る」の生徒による報告書のまとめとなります。
 
「あの頃の体育祭の実態、これからの体育祭の未来」



 
 
<以下は文章のみとなります。>
あの頃の体育祭の実態、これからの体育祭の未来

0 はじめに

我々は、実際に過去の体育祭を経験したOBの先生方にインタビューを行いつつ、同窓会資料、パンフレット、卒業アルバムなどをまとめることにした。

※注意※
本レポートは同窓会の記念誌・銀杏樹(100,120周年のもの)、卒業アルバム、麗和会館資料、先生の記憶に大変依存し、内容の多い少ないはその量によります。

1 体育祭を紐解く

 そもそも、体育祭はいつ始まったのか。
 浦高史におけるバイブル、百年誌(開校100年記念に書かれた参考資料の塊)には、1902年11月3日にはじめて運動会が開かれたとされる。開催理由などは不明だが富国強兵策にのっとったものだろう。また、1903年には別に「運動部大会」なるものが開催されている。体操、軍事教練のほかに庭球、綱引き、野球の試合があり、スポーツ大会の走りといえる。肝心の内容であるが、「銀杏樹」には1911年(開港15年目)のプログラムが残っている。今では中身の想像もつかない「笊帽(ざるぼう)競争」や「提灯競争」のような競技もある。
以後天長節ごろ(11月3日前後)に行われていた運動会だったが、1912年(大正2年)、突然その記録は消えることになる。
そのきっかけは、第5代浦中校長、渡部○(金偏に、旁(つくり)の上が矛、下が同という字の一の部分を儿に変えた漢字。読み仮名も不明)であった。彼は、運動会と修学旅行を廃止し、毎月一回川越や赤羽への行軍を行った。理由は不明だが、私としては、当時の情勢をかんがみて富国強兵策に賛同したためだろうと思う。しかしながら、当時、大正デモクラシーが浸透していく中、そのような行動は時代と逆行していた。因果関係は不明だが、このころ、大正時代の浦中は基本「荒れていた」と銀杏樹にある。
 
 1916年度を持って渡部校長から岡野章太校長に代わる(任期半ばでのことあったらしい)と、1918年には運動会は「運動競技会」として復活した。また、ほかにも県内中学連合で行われたものや、近隣小学校と合同で行ったものがあった年もある。その後、運動会と運動競技会(名前が年によって異なるが、基本体育祭とスポーツ大会に相当すると思われる)の2本柱によって戦前の浦中の体育行事の中核は構成されていた。記録こそ少ないが体育行事の盛んさは今と変わらない様子であるといえる。
 
 昭和に入り、写真の大衆化により写真記録が増え、内容がわかるものも増えた。上・右の写真は昭和9から11年のものだが、そこにはタンブリング(組体操)、騎馬戦などが写真に収められている。騎馬戦だけでいえば80年以上の歴史があることを示す資料である。また、時代を反映してか、戦車を使った模擬戦闘や行進が行われた。ほかにも、軍歌「討匪行」(満州ゲリラと戦う関東軍を描いたもの)にまつわる仮装が行われており、今の入場パフォーマンスに通じる最も早い時期の仮装の記録である。
 
 戦時中は記録がなくなった体育祭の復活は戦後、1946年のことである。校名も浦和高校に変わった1948年10月、展覧会、学芸会などを統合した第1回浦高祭が行われた。その3日目に「大運動会」を行ったとあり、現在はこれを第1回体育祭として数えている。今書いた通り当時は10月に行われており、文化祭(現在の浦高祭に相当)と総称して「浦高祭」と呼ばれていた。ここでは少し時代の進んだ第12回(左)と19回のパンフレットから抜粋したが、その内容は、定番と言える競技から、今では見られないものまでさまざまである。スウェーデンリレー、棒倒しの名前もある。
俵担ぎなど、時代を感じさせる。
 
 今は無き競技に注目すると、大福食い競争、お絵かき競争などがある。お絵かき競争は人気があったようで、多くの写真が残っている。
また、パフォーマンスとパネルはこの当時からあった。現在は流行りのものや世相を取り入れたものをやるのが恒例だが、当時からその動きはみられる。例えば、1969年には佐藤栄作や東大紛争がネタにされている。
当初は文化祭3日目、のちに1週間前に設定されるという、今から見れば強行日程での開催であった。そのためか生徒のモチベーションは低くなっていったとされ、「盛り上げのため」1985年に切り離し現行の5月末から6月頭頃に行うよう改められた。
一方で、この変更により私たちの研究は暗礁に乗り上げることとなった。というのも、それまで浦高祭パンフレットに記載されていた体育祭プログラムが書かれなくなり、以後生徒会などによる公的な体育祭の記録はほぼ(・・)まったく(・・・・)なく(・・)なった(・・・)からである。麗和会館に残る以後の体育祭の記録は、1999年(52回)のパンフレットと、2000年前後の体育祭のビデオテープ、卒業アルバムなどの断片的な写真のみとなった。
残された写真を見る限り、昭和時代の体育祭はそう変わらないものだったようである。むしろ、平成に変わってからの変化が著しいが、それについては後で述べる。
 
 昭和時代の内容のざっくりさ。不可抗力に近いものだとはいえ、それが気に食わなかった私たちは身近にいる昔の浦高を知る存在―――すなわちOBの先生方に聞き取り調査を企画した。

2 聞き取り調査
 現在、浦和高校には16名のOB教諭がいるが、今回はそのうち年齢差のある次の三名に絞ってインタビューを行った。

・T先生 30期
・Y先生 40期
・S先生 58期
内容としては、①競技の思い出、②入場時のパフォーマンス・パネルについて、③観覧者についての3つを主に聞いた。
T先生
縦割りでチーム編成がされていた(31R、21R、11Rといった具合)。そのためクラス対抗としての面のほかにチーム対抗としての面もあった。年次種目は1年が騎馬戦、2年が棒倒し、3年はなぜか玉入れだった。2年の棒倒しでは、3年のラグビー部などが乱入して怖かったのを覚えている。
パネルは合同で作られていて、座席の後ろに柱を立てた今の3倍くらいのものを3年主導で作っていた。入場のパフォーマンスはあったか覚えていない。昼休みの女子高生によるパフォーマンスはなく、スポーツ大会優勝クラスと教員チーム(当時はスポーツ大会に参加していない)がエキシビションマッチを行っていた。保護者は全くいなかった。


Y先生
競技はあまり変わらない印象がある。騎馬戦や棒倒しにかなり燃えていて、乱闘もあった。女子高生と2人3脚かパンくい競争をしたかもしれない。文化祭、湘南戦並みのモチベーションはあった。
聖火の風習はあったがクラスの入場のパフォーマンスはなく一部の人のみが仮装をしていた。ただ入場して、聖火が漫才をして、そこだけが盛り上がった。パネルは覚えていない。
運営体制は今と差はないが、保護者は全然見に来ておらず完全に内輪で騒いでいた。ちなみに昔は体育の授業がかなり緩く、自分たちがずっとサッカーだったように、行事に合わせた内容ではなかった。

S先生
1年で綱取りがあり、強く引っ張られて、足の皮がはがれるように剥けた。
3年の時、体育祭が終わった瞬間に大雨が降った。
借り物競争で、「仙龍のおばちゃん」「女子高生」などを連れてくるものがあったかもしれないが、記憶が定かでない。何らかの競技(借り物競争?)の途中に机があり、数学のテストが置いてあって解いて先生に採点してもらい、あっていたら通過できるという関門があった。
棒倒しは今は攻撃が防御を取り囲んでから始めるが、当時は直接つかみかかりに行っていた。そのあたりで、競技は今とは違うと思う。
 
 
2年の時、見に行きたいという親を絶対に来るなと止めた。親に見せるためのイベントではなく、自分たちが盛り上がるためのイベントであるため、親が来る必要はないと皆が思っていた。
入場パフォーマンスは今と同じで、パネルのサイズも変わらない。パフォーマンスはクラスでかなり話し合って決めていたし、練習もした。
今と比べて、ギャラリーが少ない。今の浦高生は自分たちで盛り上がることより、見られることに慣れていると思う。他にも、ポスターも作って、近所のお店に貼ってもらった。

3 体育祭の今、そしてこれから

 ここまで研究してきて、筆者は体育祭は「時代に流されない」ところと「迎合する」ところの二面性を持って行われてきたと思う。そして、1999年と今、2018年の体育祭のプログラムを比較すると、その考えはより確実になる。
左は先ほど言及した1999年、近代では唯一残る体育祭プログラムだが、すでに大きな変化がある。現在とほぼ同じ内容になっているのである。そして、消えた競技のうち、
・宇宙遊泳(いわゆる「ぐるぐるバット」らしい)
・食い物一気(パン、もしくは粉の中に埋まった飴か)
・借り物競争
は、いずれも「何等かの形で周りに迷惑がかかるリスクがある」という共通項を持つ。のどに詰まらせたり、人の家に踏み込んだり…よく言えば浦高らしい、荒唐無稽なものといえるかもしれないが、時代や意識の変化はどうしても我々にも変化を与える。善意や正義感からクレームが入ったり、これと似たことで起きた問題が大々的に報じられたりということも増えている。事実、2003年に大食い番組の影響で小学生がパンをのどに詰まらせる事故が起こって以来しばらく、テレビから大食いが締め出されたことがあったという例もある。
人によっては、こういった時代の動きを「時代に流された」ととらえるかもしれない。私もその一人だ。しかし、私はここであえて、浦高は「リスクマネージメントを重視している」と言いたい。楽しいことはもちろん、最も大事なことだ。けれども、それだけで生きられるほど、今は甘くない。リスクと楽しさを天秤にかけつつ、代々ブラッシュアップしていくのが我々の体育祭である。借り物競争が消え、暴力が禁止され、棒倒しのルールが変化して笛に制御されるようになるなどしても、それが最適解と信じ、眼前の競技に熱中するのが重要ではないか。むしろせっかく観客が増えたのだから、魅せる体育祭にしていくように一人一人が努力するのが重要ではないか。
体育祭の要点は、そこにあると思う。
 
4 おわりに
ほかにはない雄々しさ、一千有余の学生の声、これは今や稀なものである。浦高生として、このような体育祭は誇れるものであると思う。
 今回のアドグルを通して、浦高の歴史という観点から改めて行事を考え直せたのはいい機会だった。これからも、愛校心を持って浦高に通い続けたいと思った。
 最後に、協力してくださった先生方、並びに同窓会の方々、そして共同執筆者に謝意を示してこのレポートを閉じたいと思う。


2019年2月 

参考文献
銀杏樹
各年卒業アルバム
同窓会資料

浦和高校 行事の歴史(強歩大会)
※浦和高校 行事の歴史については、2018年度2年次(72期生)のアドバイザリー・グループ「浦和高校の歴史を探る」の生徒による報告書のまとめとなります。

「強歩大会 ~走ることの意味~」


   強歩大会
第一節    浦中時代の耐久競争の誕生
耐久競争はどのようにしてできたのか

 昭和11年に、当時の校長、今井精一先生が甲府中(現在の甲府第一高校)の24時間強行遠足の話をし、それを浦和中でも取り入れたい、ということで、その年の秋に始まった。当時のルールは、最終地点を宇都宮として、日光街道を8時間で行けるところまで行く、というもので、当時の耐久競争運営本部としては、(8時間走れば、おそらく古河あたりで全員がダウンするだろう)という計画だったそうだ。

当時のルート
浦高―大宮―岩槻―和戸―幸手―栗橋―古河―間々田―小山―宇都宮

時代背景
昭和初期・・・まさに戦争の時代→多くの若者が兵隊として採用される。
昭和11年・・・二・二六事件、 『全体的活動の重視』『耐久力の養成』
甲府中学の24時間強行遠足
熊谷中学(今の熊谷高校)の秩父往復マラソン
浦和高女(今の浦和第一女子高校)のマラソン          これらの影響もあった。

耐久競争の終結
戦争の激化により、昭和17年の第7回耐久競争をもって廃止となった。
最長到達地点
第1回、第5回:小金井
第2回、第3回:石橋
第7回:雀宮
※第4回は雨天中止、第6回は県内一周コースのため記載なし


第二節    強歩大会としての復活
復活まで
昭和33年、「浦高ルネサンス」と呼ばれていたこの時期に、生徒の声により耐久競争復活のアンケートが実施される。このときの賛成率は90%以上、さらに当時の生徒会長の立候補時の公約にも、耐久競争の復活が掲げられていた。このようにして、翌年の10月3日に第1回強歩大会が開催された。

第1回強歩大会
服装は帽子、運動ズボンが基本であった。当時のコースは、浦高―岩槻―和戸―久喜―鷲宮―栗橋―古河で、計44キロを7時間で走る、というものであった。しかし、中にはプラカードを持ったり、提灯をさげたりしている人がいるなど、強歩大会を楽しもう、という感じが強く、あくまでも生徒の楽しみになるようなものとして行われていた。参加者1030名に対し、495名が古河に到着した。(完歩率約48%)帰りは東北線の汽車に乗って帰っていたのだが、当時はまだ汽車の本数が少なく、浦高生で汽車が満員であった。

なぜゴールを古河にしたのか
・埼玉県を駆け抜けて茨城県へ入ることで、生徒が自信を持つことに繋がるから。
・栗橋から古河までの土手の景色が素晴らしいから。

沿革
1959年 浦中時代の耐久競争が強歩大会として復活(第1回強歩大会)。上記参照。
1962年 第4回、久喜周辺のコースを一部変更
1965年 第7回、和戸コース変更、距離が約45キロに。
1968年 第10回、コース変更、距離が約47キロに。
1971年 第13回、コース変更、久喜―幸手―栗橋経由になる。
1976年 第18回、コース変更、距離が約53キロに。
1977年 第19回、コース変更、和戸経由から白岡経由に変更される。距離が約48キロに。
1979年 第21回、コース変更、距離が約47キロに。
1983年 第25回、コース変更、距離が約48キロに。
1989年 第31回、それまで1年が優先であったスタート順が3年優先に変更される。
1990年 第32回、豪雨の中での強歩大会。下記参照。
2018年 第60回を迎える。現在は約50キロ。

台風の中の強歩大会
日時:1990年(平成2年)11月4日 第32回強歩大会
様子
当日の朝、台風による暴風雨(新幹線も運転中止になるほどであった)のため、生徒たちは教室で待機していた。7:15、当時の校長、鈴木勲二先生による激励放送があり、その15分後、各教室よりスタートした。ちなみに古河に到着した者は当時から見た過去10年間で最も多く、最速タイムも3時間59分と、豪雨の中古河まで走り、4時間を切った者が現れた。この時に、現在の雨天決行の原則が成立した。



第三節    この二つの行事から考える走ることの意味
走る目的は耐久競争と強歩大会で一緒なのか
主な耐久競争の目的の一つは、体力の増強であった。これは、当時戦争の真最中で、当時から見た近い将来に立派な兵隊として国のために貢献できるような体力を養う必要があったためではないかと考えられる。
また、強歩大会の目的の一つとして、体力の増強の他に、生徒間での伝統行事を作りたい、という思いがあった。強歩大会復活が当時の生徒会長の公約であったことから、多くの生徒が強歩大会の開催を強く望んでいたことが読み取れる。
つまり、体力増強という点では、耐久競争でも強歩大会でも共通の目的である。

古河マラを走り切ったことが日常生活にどう生かされているか

・古河マラがあることにより、体育での外周走を真剣に走ることができる
・古河まで走る浦高生を応援してくださる地域の方々への感謝の思いを持つことができる
・助け合いながら古河まで走ることにより、仲間との絆が深まる
・勉強や部活など、一つの物事に打ち込む集中力や精神力を高めることができる
                                などといったことが考えられる。
 
  〈参考〉
・強歩のしおり
・日本経済新聞s46年11月3日分
・銀杏樹
・浦高同窓会だよりシリーズ浦中・浦高の伝統行事1